20081011 | |
吉田神社 |
住所 | 京都市左京区吉田神楽山町 | |
祭神 | 第一殿:建御賀豆知命 第二殿:伊波比主命 第三殿:天之子八根命 第四殿:比売神 | |
神徳 | 斎場所大元宮 厄除祈願 若宮社 水徳の神 山蔭神社 包丁の神・料理飲食の祖神 神楽岡社 雷除け |
摂社 ・ 末社 |
摂社 | |
若宮社 | 天忍雲根命 | |
神楽岡社 | 大雷神・大山祇神・高龗神 | |
末社 | ||
斎場所大元宮 | 天神地祇八百萬神・天照皇大神・豊宇氣比売神 式内神三千百三十二座 | |
神龍社 | 従二位卜部兼倶朝臣 | |
三社社 | 多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐津毘売命 金山毘古命・金山毘売命・菅原神 | |
今宮社 | 大己貴神・大山祇神・健速須佐之男命 | |
祖霊社 | 太元講社奉齋祖靈 | |
龍澤池社 | 龍澤池 | |
神海霊社 | 萩原兼従 | |
境内社 | ||
山蔭神社 | 藤原山蔭・恵比須神 | |
菓祖神社 | 田道間守命・林浄因命 | |
境外末社 | ||
竹中稲荷社 | 宇賀御魂神・猿田彦神・天鈿女神 | |
由緒 | 貞観元年の創祀。『大鏡』裏書によれば、中納言藤原山蔭が氏神として春日大原野の神を邸内に勧請され、その後文明年間に現在の地へ遷座した。山蔭の子である中正の娘が、藤原兼家の室となって詮子を生み、円融天皇の女御となって一条天皇を産んだ事から、以後外戚の氏神として尊崇された。 『伊呂波字類抄』によれば、吉田神社の創祀は永延元年となっているが、『日本紀略』によれば、官祭の詔を受けて一条天皇の行幸があり、祭礼が行われた年を永延元年としている。正暦2年、大社19社に列せられ、嘉承元年、4度官幣に預かり、延文5年には、正一位を授けられている。社務は卜部兼延が祠官となってからは代々卜部氏が継ぎ、兼煕のとき吉田氏を称した。 一条兼良の『公事根元』によれば、「奈良の京には春日の社。長岡の京には大原野。いまの京には吉田社也」と藤原氏の氏神としての性格が記されている。また、嘉禎元年、将軍九条頼経の病気平癒祈願がなされ、暦仁元年には頼経が参詣するなど、武家の崇敬も集めた。 文明16年、吉田兼倶が神祇斎場を境内に設け、全国の神を合祀して大元宮と称し、教義・祭祀の根本となし、神官の統括をはかり、唯一神道を唱えた。兼倶は「元本宗源神道」「唯一宗源神道」「唯一神道」などと称し、教説は『唯一神道名法要集』に記している。兼倶は従来の神道を、古来の神社神道である「本迹縁起神道」と、仏教と習合した神道である「両部習合神道」の二つに分け、その二つの神道に対して、卜部氏が伝えてきた神道を唯一至高の神道であると説いている。兼倶は神道の唯一純粋性を主張したが、実際には儒教・密教・老荘思想・道教・陰陽説などさまざまな教説を取り込んでいる。八角形をした大元宮には津々浦々の神を勧請し、「宗源宣旨」と称する文書をもって全国の神社に位階を授け、神階を認め、神殿や祭礼の認可を与えた。室町時代以降の統一的な権威を求める歴史の流れに乗り、全国の神官を傘下に収めるようになった。 天正18年、聚楽第の建設にともない、後陽成天皇の勅により神祇官八神殿を本殿北側に遷座した。慶長14年、勅により神祇官代として伊勢例幣使の儀礼を修めて明治4年まで継続したが、その後皇居に再び遷座した。 吉田神社には直属の氏子圏はないが、神楽岡の西を今宮社の氏子、神楽岡の東を神楽岡社の氏子が兼ねている。毎年節分には三日間に渡って節分祭を行い、疫神祭・追儺式・火炉祭の儀と三部にわかれ、本宮追儺式は「鬼やらい」として参詣者で賑わう。 |
京都大学正門前、東一条通の突き当たりに吉田神社の広い参道が続く。 | |
大きな水盤舎。 | |
境内は吉田山の中腹にある。 | |
拝殿。 | |
拝殿の東側にある殿舎。 | |
中門。 | |
四社が一列に並ぶ本殿。右から第一殿、第二殿、第三殿、第四殿と並ぶ。 | |
本殿から一段高い位置に若宮社がある。 | |
祭神は天忍雲根命。天之子八根命の子で、天孫のために天の二上に上り、御膳水を請うて奉った水徳の神。 もともとは本社の第二殿と第三殿の間に無社殿で祭られてあったのを、延元元年、吉田兼煕が社殿を建立した。慶安元年、現地に造営され、明治10年に摂社に定められた。 | |
鎮座の年代は不明。『延喜式』に霹靂神、神楽岡に坐すと記してあり、雷除の神として尊崇され、神楽岡地主の神であり、神楽岡町の氏神である。 | |
斎場所大元宮の参道。日降坂を東へ、和琴坂へ抜ける途中にある。 | |
斎場所大元宮の中門。 | |
斎場所大元宮の水盤舎。 | |
斎場所大元宮の本殿。国指定重要文化財。八角殿・妻入・二軒繁垂木・入母屋造・茅葺・背面六角堂・正面向拝一間になっている。 | |
大元宮の周りには式内社3132座・内宮・外宮が祀られる。 | |
天正18年から明治4年まで、社殿後方に八神殿があり、今でも神跡が残る。 | |
神龍社へ続く階段。俗に「百段さん」と呼ばれる。 | |
神龍社は石垣に囲まれ城郭のよう。 | |
従二位卜部兼倶を祀る神龍社。永正10年の創祀。 | |
大元宮の南側にある三社社。 | |
多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐津毘売命・金山毘古命・金山毘売命・菅原神を祀る。 吉田家邸内に祀られていたが、弘化元年に遷座。明治5年、吉田神社の末社に定められた。 | |
吉田神社本殿の西下方にある大己貴神・大山祇神・健速須佐之男命を祀る今宮社。 | |
今宮社拝殿。 | |
創祀は不明。健保3年の吉田小神社注進状でその名が記される。 文化13年現地に造営。古くから木瓜大明神と称し吉田町の産土神である。 | |
今宮社四神石。本殿東南の青龍。 | |
本殿西南の白虎。 | |
本殿西北の玄武。東北の朱雀は内陣にあると伝えられている。 | |
今宮社の隣にある祖霊社。 | |
吉田神社太元講社の社員の祖霊を祀る本殿。明治16年の創祀。 | |
龍澤池。 | |
龍澤池のそばにある小祠。 | |
山蔭神社の西下方にある神海霊社。萩原兼従を祀る。 |
山蔭神社 |
歴史 | 昭和34年の創祀。祭神の藤原山蔭は貞観元年に吉田神社を創建し、また、あらゆる食物に始めて調理・調味を行ったとされ、包丁の神・料理飲食の祖神として多くの料理店や業界の信仰を集めている。5月8日の例祭には京都の料理飲食業の関係者が見守るなか、生間流包丁式の奉納が執り行われる。 |
吉田神社本殿から大元宮にのぼる日降坂の西側にある山蔭神社。 | |
赤い春日造の本殿。 |
菓祖神社 |
歴史 | 昭和32年の創祀。田道間守命と林浄因命を祭神とし、兵庫県中島神社・和歌山県橘本神社・奈良県林神社より勧請。京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会を結成している。 |
吉田神社の南側、日降坂から菓祖神社への参道が伸びる。 | |
一段高い境内。南面する。 | |
赤い瑞垣に囲まれた本殿。 |
勝手にリンク | 吉田神社 神詣 | |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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