20061106 修正 20070126 | |
崇道神社 |
住所 | 京都市上高野西明寺山 | |
祭神 | 早良親王 | |
境内社 | 出雲高野神社 小野神社 伊多太神社 | |
末社 | 天照大神・豊受大神・日吉大神 貴船大神・恵比須大神・春日大神 赤山大神・十二社大神・北野天満大神 弁財天大神・宇佐八幡大神 市杵嶋姫大神・長岡大明神・ | |
神徳 | 伊多太神社 学問の神 |
由緒 | 創祀は貞観年間。早良親王は光仁天皇と高野新笠の子で、桓武天皇の実弟。早良親王は反桓武勢力の中心と目され、延暦4年、長岡京で起こった藤原種継暗殺事件に連座し、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中に絶食し憤死した。屍は淡路島に葬られたが、御霊神となったため、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の諡を贈り、墓を八島陵へ改装し怨霊を鎮めた。崇道神社の地は都の鬼門に当たり、北陸への要衝を押さえるため、御霊社として親王を祀ることになった。『三代実録』には「所謂怨霊者は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人」とあり崇道天皇を第一に上げ、これが御霊会に関する初出史料になっている。 崇道神社は高野御霊とも呼ばれ、高野村の産土神であり、例祭は「神輿一基、祭礼の時道が定まらない。ただ神慮で、田畑川筋に限らず、常に道なき所を渡る。これに逆らう時は神輿が重くなり、神輿が人家の方へ赴くときは軒を破る。御霊の心が伴わなければ動かない。村民は手に汗を握り、神威を恐れ奉る」という奇祭であったという。元和以降は吉田神道に属すようになる。 |
花園橋から大原へ抜け北国へ向う街道沿いに崇道神社の長い参道が続く。 | |
薄暗い水盤舎。手拭がかかる。 | |
境内は南面するが、総じて薄暗く様々な常緑樹に囲まれる。高いところに拝殿・幣殿と続く。 | |
一間社流造の本殿。 | |
打たせ滝。 | |
五味藤九郎之碑 延宝5年、高野川の清流を高野村川南台地へ通じるため、上高野山麓の臣岩を貫通させて水路を開設した。 |
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小野神社の東側にあった小さな祠。如意輪観世音大菩薩尊を祀る。 | |
北野天満大神・弁財天大神・宇佐八幡大神・市杵嶋姫大神を祀る末社。 | |
春日大神・赤山大神・十二社大神を祀る末社。 | |
天照大神・豊受大神を祀る末社。 | |
日吉大神・貴船大神・恵比須大神を祀る末社。 | |
長岡大明神を祀る末社。 | |
上高野集落の中心に位置する里堂。神輿庫になっている。 |
出雲高野神社 | |
由緒 | 式内社。平安遷都以前、出雲郷の雲上里・雲下里のうち雲上里の産土神と考えられる。中世までに廃絶していたが近世に再祀した。崇道神社本社も論考社であり、御蔭神社・御陰神社・御霊神社・猿田彦神社なども論考社になっている。 |
式内社・出雲高野神社に論考される小祠。 |
小野神社 | |
祭神 | 小野妹子・小野毛人 |
由緒 | 小野氏が創祀した神社で小野一族を祀る。以前は崇道神社里堂の南方に石垣があり、ズンショの森と祠があった。現在の小野神社は昭和46年、地元有志により再建された。慶長18年、崇道神社境内の山腹から小野毛人の鋳銅製の墓誌が発見された。大正3年、墓が調査され、板石で作られた石室は長さ2.5m、幅及び高さ1mで封土が施されていた。墓誌は国宝に指定され京都国立博物館に保管されている。 |
崇道神社東側に小野神社の境内が広がる。 | |
北側の山を140mほど上がったところにある、小野毛人の墓誌が見付かったとされる場所。京都市中が見渡せる。 |
伊多太神社 |
祭神 | 伊多太大神 | 末社 | 鎌倉社・日吉社・三穂津社・三輪社・足之社・教之社 |
由緒 | 創祀は不明。式内社。湧水の神であり、農業神。伊多太は湯立の訛で社前には、池ノ内・市川・大湯出・等良田があった。往古の湯立の儀は出雲系の神事で、巫女は宮中に奉仕した。近世は学問の神として崇拝されている。以前は、崇道神社北西の大明神町に祀られていたが、明治41年、崇道神社に合祀された。 |
崇道神社参道の西側に沿って伊多太神社の小さな境内がある。石造りの明神鳥居と末社群。 | |
簡素な覆屋と一間社流造の本殿が南面する。 | |
崇道神社と三宅八幡宮の間の山麓に伊多太神社の旧社地が広がる。 | |
式内社と銘打つ伊多太神社の旧跡碑。 |
勝手にリンク | 神詣 フィールドミュージアム京都 |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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