20060918
改定 20080613
建勲神社
住所 京都市北区紫野北船岡町
祭神 織田信長・織田信忠
摂社

末社
義照稲荷社
 義照稲荷の末社

船岡妙見社
神徳 不明
由緒  正式呼称は「たけいさお」神社。通称「けんくん」神社。
 天下を統一した偉勲を称え、明治2年10月明治天皇によって奉斎するべき旨を宣下された。創建時は「建織田社」であり、明治3年1月に東京・天童に社殿を造営したが、明治3年10月に「建勲社」と改称した。明治8年別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、明治14年には長男信忠を配祀し、次いで明治43年、現在の山頂に遷座した。
 船岡山は本能寺の変の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、主君である織田信長の廟所と定め大徳寺に管理を任せていたところといわれている。
 信長着用の紺糸威胴丸。義元左文字、太田牛一自筆本の『信長公記』など重要文化財などを多数有する。
 10月19日の船岡祭は織田信長が永禄11年に始めて上洛した日を記念して行われる。
(参考:玄松子の記憶・神社事典・駒札/京都市・駒札/建勲神社)
 明治13年に新築の後、昭和9年に全面的に建て替えられ、平成12年に大改修が施工された。使用材は台湾阿里山産の紅檜で耐久性に優れる。明治神宮と共に、素木造明神型鳥居の典型である。

 最大高24尺
 最大幅34尺
 柱の本径2尺3寸
 推定樹齢1200年以上
 大鳥居をくぐったところにある社務所。
 参道登り口。
 井戸。井筒には木瓜紋。
 山頂境内の参道。左手には敦盛の碑。
 「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」
 切妻柿葺の水盤舎。
 拝殿。「信長公功臣肖像画」を掲げている。
 拝殿から東面する。中央に貴賓殿。左に社務所。比叡が優美な姿を誇る。
 本殿は東面している。中門の屋根はむくっており優しいカーブを描いている。
 
義照稲荷社
由緒 和銅3年の創祀。宇迦御霊大神、国床立大神、猿田彦大神の三柱を祀り、奈良時代に京都盆地に威勢を誇った秦氏の守護神として今日の西陣織の祖神をなしている。
 稲荷命婦元宮には、伏見稲荷大社命婦社の親神である「船岡山の霊狐」が祀られている。
 船岡稲荷大神は、従来船岡山西南に鎮座していたが、羽野富治氏により昭和43年に遷座した。衣食住安泰繁栄を守護している。
 建勲神社の紅檜鳥居の先に義照稲荷社へ続く参道がある。
 独特の赤が生える社殿はすっきりとしている。
 切妻妻入の拝殿と、奥にきつねが控えている本殿。
 義照稲荷社の西側にある稲荷命婦元宮。
 義照稲荷社の北側にある船岡稲荷大神。
 
船岡妙見社
由緒    船岡妙見社は船岡山の地の神・玄武大神を祭る。
 平安遷都に際し風水が相され、船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜され、ここを北の基点として平安京が造営された。
 玄武信仰は古くから広く行われ、宝永4年発行の『霊符縁起集説』には「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と見える。船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている。
 建勲神社山頂境内の南側にひっそりと祀られている。手前に透垣が巡らされており、近寄ることが出来ない。
 簡素な拝殿と本殿。共に南面する。
リンク 玄松子の記憶
参考文献 神社事典 東京道出版 1997
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