由緒 |
創祀は不明。平安期の御霊信仰と関わりがあるとされる。社伝では、道真の師である比叡山法性坊の尊意が勧請したと伝えられる。境内は、叡山に登る八瀬坂の起点となっており、「菅公腰掛石」がある。八瀬坂は雲母坂とともに古くから開かれた登山道で、建武3年に後醍醐天皇が足利尊氏勢を避けて比叡山に登っている。境内裏手にはこの時の村民の活躍を刻む御所谷碑がある。
天満宮境内の南側には秋元神社が祀られており、赦免地踊りで知られている。比叡山との境界争いで老中秋元喬知の裁許により八瀬村の利権が認められ、報恩のために村人が喬知を秋元大明神として祀った。境相論は宝永4年、日光准后の申し出により山門の結界が改められたことに端を発し、翌5年には八瀬の者は結界内に立ち入れないという裁決が幕府より出された。耕地が少なく薪商売を生業とする村人にとって山への立ち入り禁止は死活問題であり、老中秋元喬知に愁訴した。宝永7年、愁訴功を奏し、私領・寺領を上地して一村禁裏御料となり、年貢・諸役一切を免除するとの裁決が下された。その裁決に由来する赦免地踊は、中世の風流踊に念仏系統の燈篭が加わった踊りとして名高い。女装の青年の頭に八基の燈篭を灯し、八瀬の人々によって一夜の優雅な祭りが繰り広げられる。
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