20090320 | |
若宮八幡宮 |
住所 | 京都市山科区音羽森廻町 | |
祭神 | 仁徳天皇・応神天皇・神功皇后 素盞嗚尊・天武天皇 | |
摂社 ・ 末社 |
天満宮 宇治稚郎子命・菅原道真 | |
神徳 | 厄除開運 |
由緒 | 創祀は不明。天智天皇が志賀の都から山科郷へ巡幸を行った時、音羽の地に八幡神を勧請したのが始まりと伝える。 当初は仁徳天皇・応神天皇・神功皇后の三柱を祀っていたが、末社の出雲社を廃する際に、祭神である素盞鳴命を本社に合祀した。その後、大津皇子の御子である粟津王の末裔とされる粟津氏が、この地を拓いて居住するようになり、祖である天武天皇が併せて祀られた。 平安時代には神仏習合による寺院が境内に設けられ、十一面千手観音・不動明王・毘沙門天が勧請された。その後、廃仏毀釈により他所へ預けられたが、戦後境内に御堂を再建して再び祀られている。往古より五斗の神供米を朝廷より受けていたが、明治3年より廃止になった。 本殿の造営は、寛治元年、応永年中、寛文7年、宝暦2年、明治15年、と昭和になってから3度行われたと記録されている。 境内には大津皇子と粟津王の墓とされる2基の古墳があり、室町初期の宝篋印塔が現存する。 大津皇子は天武天皇の第3皇子で、母の大田皇女は天智天皇の皇女。『懐風藻』によると「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」とあり、多くの人々の信望を集めていた。朱鳥元年、天武天皇が崩御すると、川島皇子の密告により謀反が疑われ、妻である山辺皇女とともに自害させられた。 粟津王は大津皇子と山辺皇女の第二子。大津皇子死後、粟津王はこの地に移り住み、土地の発展に力を注いだ。音羽地域には粟津姓が多く、その末裔たちにより八幡宮境内の宝篋印塔が建てられたと伝わる。 |
音羽の郷の古い街道に面して若宮八幡宮がある。 | ||
水盤舎。 | ||
拝殿。 | ||
拝所奥に本殿。 | ||
観音殿。 | ||
末社の天満宮。 | ||
大津皇子、粟津王を供養する宝篋印塔。 |
勝手にリンク | 京都府神道青年会 神詣 | |
参考文献 | なし |
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