20090614 | |
綱敷行衛天満宮 |
住所 | 京都市下京区西七条北東野町 | |
祭神 | 菅原道真 | |
摂社 ・ 末社 |
白太夫大神・末吉大明神・辨財天 | |
神徳 | 不明 |
由緒 | 昭和9年の創祀。西七条村に祀られていた綱敷天満宮と行衛天満宮を合祀した。綱敷天満宮は同地に、行衛天満宮は同地の西方に鎮座しており、共に洛陽天満宮二十五社に数えられていた。現在は松尾大社の境外末社の一つであり、本殿は寛政年間の建立されている。 綱敷天満宮 創祀は不明。西七条村にある森は、高さ数十丈、山の如く見える榎があり、榎の森と称されていた。森の傍らには広大な菖蒲池があり、四季を通じて花が絶えない景勝の地であった。道真の乳母である文子はその西七条村の出身であり、道真も白太夫という従者を従えて遊びに来ていた。 道真はこの森を「閑静の勝地」と称し、別荘を建てて池で舟遊びをしていた。里人が調達した舟綱を円座にし、その上に座して詩歌を詠んでいたが、里の子どもが真似をしている。道真は自分の姿を残して置こうと網敷の像を自らが描き、その父子に与えた。 後に道真は筑前に左遷されたが、帰洛の勅命が無く、京洛を思い、父子に与えた網敷の像を榎の森に祀りたいと、白太夫に命じて文子に伝えさせた。文子は小祠を建てようとしたが、道真を憚ってそのままになっていた。ある夜、夢に「ここに来て身を入れる宿がない。疑わず我が住居を作るべし」と託宣があり、一宇を建立して榎寺と名付けた。 また、『山州名跡志』によれば、道真が筑紫へ左遷される時、博多において舟に乗った時、御座が無かったので舟の綱を敷いて御座とした。この時、一夜にして白髪となり、それを図して「一夜白髪の御影」と云い、その神像を安置したために綱敷天満宮と称した、と記されている。 行衛天満宮 元々は「靱負天満宮」が正しいとされ、平安京の右京を南北に通る「西靱負小路」に面していたことから名付けられたとされる。西靱負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮南門から唐橋を経て吉祥院へ通じる道で、道真も良く通ったとされている。また、道真の乳母文子の旧宅跡地に祀られていたともされている。 |
七条御前を北へ、住宅街の一角に綱敷行衛天満宮が鎮座する。 | ||
御前通から見る。 | ||
水盤舎。 | ||
本殿覆屋。前には拝所。 | ||
白太夫大神・末吉大明神。 | ||
水盤舎横の辨財天。 |
勝手にリンク | 京都を感じる日々 神詣 | |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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