20080106
改定 20080721
松明殿稲荷神社
住所 京都市下京区稲荷町
祭神 天照大神・大己貴命・伊弉諾命
伊弉冊命・猿田彦命・倉稻魂命
摂社

末社
天満宮
神徳 不明
由緒  天暦2年の創祀。「松明殿」という名は、天暦10年、勅命により燎祭が行われた際に「炬火殿」の号を賜ったことに由来する。安永9年刊行の『都名所図会』では、伏見稲荷大社春の稲荷祭の際、松明殿稲荷の氏子が社前に松明を灯して七条河原で神輿5基を迎える古例があることから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
 祭神の他に、天智天皇・大友皇子の木像を安置する。現在は伏見稲荷大社の境外末社で、田中社とも言う。はじめ、黒門通塩小路辺りに鎮座していたが、弘長3年、七条東洞院に遷座する。鴨川西七条北等を経て、宝永8年に火葬場の臭気が境内に及んだため、妙法院門跡に申請し、現在の地に遷座した。
 境内西側には、安祥院の僧で、様々な社会事業を興した江戸時代中期・木食正禅養阿が、宝暦2年夏、七条周辺の人々のために寄進した井戸と手洗石が残っている。木食とは、米穀を断ち、木の実を食べて修行することで、この苦行を修めた僧は木食上人と呼ばれる。養阿は、丹波桑田郡保津村の武士の子として生まれ、24歳で仏門に入り「朋厚坊正禅」と改名し、泉涌寺雲龍院で修業した。高野山で木食行を修めた後、信濃や美濃を行脚し、京都に戻って七条大宮に「梅香庵」という草庵を結んだ。その後、念仏聖として罪人や身寄りの無い不遇な人々の魂を供養するため、洛中洛外の無縁墓地を周っていた。その時京都には十一ヶ所の無常所「南無地蔵・大谷・西ノ土手・粟田口・最勝河原・元三昧の六つの墓地と、狐塚・阿弥陀ケ峰・中山・千本・七条金光寺の五つの三昧堂」があり、養阿はこれら無縁墓地や刑場傍の墓地で墓参りを3年間続け、これらの内10ヶ所で死者の供養のための名号碑を建立している。
 享保10年、五条坂の安祥院を再建し、元文3年には東海道の難所といわれた日ノ岡峠の改修工事を完了、峠道の管理所・休憩所として梅香庵を建てた。 元文6年に「法橋」の位を授かり「養阿」と号した。延享4年頃には、急坂のある渋谷街道の補修工事を行った。宝暦13年に亡くなり安祥寺に埋葬された。
 七条大橋の西詰に松明殿稲荷の小さな社地がある。。
 境内は狭い。奥に拝殿と本殿。右側に天満宮と養阿の井戸。
 養阿の手洗と井戸。
 拝殿から本殿を見上げる。
 末社、天満宮。
勝手にリンク 京都を感じる日々
参考文献 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997
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