20090926 | |
俊成社 |
住所 | 京都市下京区俊成町 | |
祭神 | 藤原俊成 | |
摂社 ・ 末社 |
なし | |
神徳 | 不明 |
由緒 | 創祀は不明。藤原俊成の邸宅跡地と伝わる所に、後世になって俊成の霊を祀ったもの。 藤原俊成は藤原俊忠の子で、民部卿顕頼の養子となった。藤原定家の父。平安末期の代表的な歌人であり、後白河法皇の院宣により、文治3年、『千載和歌集』を選集した。 和歌の師弟であった藤原俊成と平忠度の交流が古くから伝えられている。『平家物語』によれば、、平家一門の都落ちの際、忠度は途中で俊成邸へ戻り、忠度が詠んだ和歌の巻物を献上した。その後、俊成が『千載和歌集』を撰ぶ際に、忠度の和歌を撰びたかったが、忠度は勅勘の身であり、勅撰集には入れられない。そこで、「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」という歌を読み人知らずとして『千載和歌集』に収めることにした。 また、謡曲『俊成忠度』によれば、岡部六弥太忠澄は西海の合戦において忠度を討った。その時、忠度の尻籠に入れられていた短冊を都へ持ち帰り、歌道の師である俊成に見せた。短冊には『行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし』と綴られ、俊成は文武両道に優れた忠度を偲んで冥福を祈った。 |
烏丸松原の角、商業街の真ん中に俊成社の小さな社がある。 | ||
榊が植えられ青空がまぶしい。 | ||
本殿は清潔に保たれ、お世話をする方の気持ちが伝わる。 |
勝手にリンク | 花橘亭 | |
参考文献 | なし |
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