20061204 | |
六孫王神社 |
住所 | 京都市南区八条町 | |
祭神 | 源経基・天照大神・八幡大神 | |
摂社 ・ 末社 |
誕生水辨財天・睦弥稲荷 祭神不明の末社が一柱 | |
神徳 | 安産祈願・子孫繁栄 出世祈願・勝運祈願 |
由緒 | 祭神である源経基は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子であり天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれていた。源経基は15才で元服し、源の姓を賜る。承平・天慶の乱では追討使として戦い、後に鎮守府将軍に任じられている。応和元年、経基は臨終の時に「霊魂滅するとも龍となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえ、この地に葬れ」と遺言した。応和3年、嫡男満仲は遺言どおり経基を葬り、八条亭跡に霊廟を建てたのが六孫王神社の創祀といわれている。本殿背後には神廟があり、石で基壇を築いただけの珍しい墓がある。嫡男満仲は清和源氏の武士団を形成し、六孫王神社は「清和源氏発祥の宮」と称され、多田神社・壺井八幡宮と共に源氏三神社の一つとされている。 その後、源実朝の妻である本覚尼が六孫王神社の北に遍照心院を建立し、六孫王神社はその鎮守社となるが、応永5年の火災で焼失した。足利義満により再建されたが、応仁の乱などの兵乱により被災多く、わずか霊廟と社地を残すのみとなる。元禄13年、江戸幕府により社殿の再興が進められ、14年には正一位の神階と権現号を授けられ、15年に完成している。工事費用銀186貫目、諸費銀70貫目・金141両を使う大造営であった。この時の社は本殿・幣殿・御廟積石・石柵・三所権現社・満仲権現社・四脚門・廻廊・神竜池・御供所・御本地堂・鐘撞堂・誕生水屋形・神宝蔵・惣門などが造営されている。造営の奉行は松平紀伊守が務め、費用も幕府から賄っており、徳川家の深い帰依が伺われる。社僧も御祈祷の御札を江戸城に献上している。宝永4年、金254両余をかけて神輿一式と楽器と旅所が整えられ、青龍・白虎・玄武・朱雀の四神が出る宝永祭が行われるようになった。神幸道は六孫王神社より八条村旅所まであったという。 江戸幕府の滅亡により衰微し、神仏分離により遍照心院と分離後、上知令と社録逓減令により「年々維持叶わず、神殿はじめ建物など大破に及び、昔日の義を失い、痛惜する」という状態に陥った。明治19年、内務省下賜金300円と華族や信徒の助力を得て社殿の修理を行った。 竹生島より弁財天を勧請し、源満仲が産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社があり、京都七ツ井の一つといわれている。 |
京都駅の西、国鉄が通る脇に六孫王神社が鎮座する。 | ||
立派な切妻造の水盤舎。 | 社務所。 | |
神竜池。 | 四脚門。拝所になっている。 | |
入母屋造の拝殿。 | 誕生水辨財天。 | |
睦弥稲荷。 | 祭神不明の末社。神竜池を祀るか。 | |
境内南方の地蔵堂。 |
勝手にリンク | タウンナビ京都 Wikipedia | |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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