20071021 | |
木嶋坐天照御魂神社 |
住所 | 京都市右京区太秦森ケ東町 | |
祭神 | 天之御中主神・邇邇藝命 穂々手見命・鵜葦草葦不合命 | |
摂社 ・ 末社 |
養蚕神社・顕名神社・魂鎮神社 三十八所神社・白滝稲荷社・椿丘神社。 | |
神徳 | 木嶋神社:祈雨・学問・祓いの神 養蚕神社:養蚕・機織・染色の神 元糺の池:諸病平癒 |
由緒 | 創祀は不明。延喜式式内社。現在の祭神は天之御中主神・邇邇藝命・穂々手見命・鵜葦草葦不合命であるが、本来の祭神については分からない。『京都府地誌』には推古天皇12年の勧請としているが、確実な資料では『続日本紀』大宝元年の条に神社名が記載されている。広隆寺創建とともに勧請されたという説もある。 木嶋坐天照御魂神社とは「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味であり、本来は「天照御魂神」を祀る神社ということであるが、「天照御魂神」がどの神なのかについては諸説ある。『葛野郡神社明細帳』では「爾々芸命」の名を挙げ、『神社志料』では「天火明命」のこととしている。関西には、「天照」のつく神社がいくつかあり、元々はそれぞれ当地の太陽神を祀っていた神社と考えられている。続日本紀などの国史には「木嶋神」の名前であり、「木嶋」という名前は、原野に茂る杜の様が「木の島」のようであったからとされる。 木嶋坐天照御魂神社は、通称「蚕の社」と呼ばれ、摂社である養蚕神社に由来している。嵯峨野一帯は秦氏の勢力範囲であり、秦始皇帝の後裔と称する弓月君を始祖とする「秦氏」は古墳時代に渡来し、製陶・養蚕・機織などにすぐれた技術を日本に伝えた。平安京造営以後は祈雨の神として信仰が厚く、参詣人も多かった。 本殿の西側には四季湧水する「元糺の池」という神池があり、禊の行場とされている。賀茂御祖神社の「糺の森」は嵯峨天皇の時代にここから遷されたとされ、賀茂氏と秦氏の関係を物語っている。夏季土用の丑の日には、この池に手足を浸すと諸病によいという庶民信仰がある。 「元糺の池」上段には「三つ鳥居」と呼ばれる石製の三柱鳥居がある。三本の柱を三つの島木と貫でつないだ神明型の石鳥居で、真ん中には組石の神座が作られ、三方から拝めるようになっている。創建や謂れも不明だが、石柱の銘から天保2年に再興されたもので、以前は三ツ組の木柱の鳥居だったといわれている。一説に景教由来の遺物ではないかとされる。京都三鳥居の一つ。 境内には、三井家の祖・越後守高安を祀る顕名神社、三十八所神社、白滝稲荷社、もと木島里このしまのさとにあった椿丘神社などの末社がある。木島神社の周辺の村里は「木島里」と呼ばれ、承久の乱で後鳥羽帝に味方して敗れた三浦胤義父子は、ここ「西山木島」まで逃れて神社の境内に隠れたが、武運尽き自害して果てた。その三浦父子を祀った魂鎮神社も境内にある。 平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』「金の御岳は一天下 金剛蔵王釈迦弥勒 稲荷も八幡も木島も 人の参らぬ時ぞなき」「太秦の薬師がもとへ行く麿を しきりにとどむる木の島の神」と、伏見稲荷や石清水八幡、太秦の薬師とならぶ木島神社の賑いぶりが歌われている。 |
広隆寺の西、二条通に面して、木嶋神社の白木神明造の鳥居が建つ。 | ||||||
社務所。 | ||||||
拝殿。 | ||||||
お休みどころ。 | ||||||
本殿前の拝所。 | ||||||
神明造の本殿と幣殿。 | ||||||
養蚕神社。 | ||||||
三つ鳥居入口の鳥居。 | ||||||
三つ鳥居。 | ||||||
社務所前の「かいこのやしろ」の石碑。 | ||||||
境内西側にある稲荷社、末社群の入口。 | ||||||
白清社。古墳の石室を利用している。 | ||||||
祭神不明。顕名神社・魂鎮神社のうち。 | ||||||
祭神不明。顕名神社・魂鎮神社のうち。 | ||||||
椿丘大明神の碑。 | ||||||
本殿西側にある祭神不明の末社。三十八所神社か。 |
勝手にリンク | 鈴木商会 WIKIPEDIA | |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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