20070120 | |
上御霊神社 |
住所 | 京都市上京区上御霊竪町 | |
祭神 | 八所御霊 崇道天皇・伊予親王・藤原仲成 他戸親王・井上内親王・菅原道真 藤原広嗣・藤原吉子・文室宮田麿 橘逸勢・吉備真備・吉備内親王 相殿 小倉實起・小倉公連 小倉季伴・中納言典侍局 配祀 和光明神:菅原和子・若宮 | |
神徳 | 疫病封じ・病気平癒・心鎮め 学業成就・厄除け |
摂社 ・ 末社 |
八幡宮・白髭社・疫除社・淡嶋社・大舞宮・天満宮・多度社・貴舩社 嚴島神社・神明神社・福壽稲荷神社 三十社 春原社・荒神社・稲葉神社・今宮神社・熊野神社・愛宕神社・熱田神社・多度社 嚴島神社・猿田彦社・貴布禰社・丹生神社・梅宮神社・八坂神社・廣田神社 吉田神社・日吉神社・住吉神社・龍田神社・廣瀬神社・大和神社・石上神社 大神社・大原神社・平野神社・春日神社・松尾神社・八幡神社・賀茂神社・鴨神社 |
由緒 | 出雲氏の氏寺である、上出雲寺の鎮守社であったとされる。『山城名勝志』によれば、平安遷都の際、桓武天皇の勅願により大和宇智群より遷座したとされている。『神祇正宗』『扶桑京華志』によれば、天慶2年の奉遷とされる。また『三代実録』によれば、貞観5年、神泉苑において、崇道天皇・伊予親王・藤原吉子・観察使藤原仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂などの御霊を祀る御霊会が行われ、この御霊会をもって御霊神社の創祀としている。 『樵談治要』によれば御霊とは、「むかし謀反をおこして、その心ざしをとげず、あるひは又何事にても、うらみをふくめる霊をまつられたる社なり」とあり、政争に巻き込まれ、非業の死を遂げた人の霊のことである。当時はしばしば疫病が流行り、それを御霊の祟りであると考えて祀られた。祭神である八所御霊とは、『三代実録』の6柱に、他戸親王・井上内親王・菅原道真・藤原広嗣・吉備真備・吉備内親王などのいずれか2柱を加えて「八所」としており、諸説定かではない。明治天皇の皇子女が立て続けに4人も死んだため、明治14年、上冷泉家の冷泉為紀らが進言して、江戸時代に皇位継承に絡んで怨みを抱く小倉季伴・小倉實起・小倉公連・中納言典侍局・菅原和子の霊が合祀された。小倉季伴・小倉實起・小倉公連は、親王の立太子をめぐって天皇に諫言し逆鱗に触れて佐渡に配流された末に没した。中納言典侍局・若宮・菅原利子の三柱は、和光明神として勧修寺願允氏の邸内にあったものを遷座している。 中世までは、神社として独立しては史料に出ず、『日本紀略』には、康保3年、疫病流行の読経所として「御霊堂・上出雲寺」の名があり、この御霊堂が上御霊神社のこととされる。中世後期には上出雲寺が衰退し、至徳元年には、正一位が授けられている。応仁元年、応仁の乱の幕開けとなる御霊合戦が畠山政長と畠山義就の間で起こり、社殿を焼失する。文明10年にも焼失したが、足利氏が再建した。江戸期の『京都御役所向大概覚書』に「朱印領19石、社地東西74間南北79間、小社32社、兼帯の社1社、兼帯の寺1寺」とあり、氏子圏は「東は賀茂川に限り、西は東堀川に限り、但し一条より北は小川通に限り、北は野に限り、南は出水通に限る」とある。祭礼は「7月18日、神輿2基が上御霊前之町を西に行き、室町を下がり、今出川を東に行き、寺町を下がり、旅所である中御霊に神幸する。8月18日、中御霊から寺町を上がり、今出川を西へ行き、烏丸を下がり、下長者町を西へ行き、室町を上がり、上御霊前之通を東へ行き、本社へ帰座する」とある。『拾遺都名所図会』には、この祭礼に出る行列が載り、剣形の鉾は疫神を払うとして信仰されている。現在の社殿は、宝暦5年、禁裏内侍所を賜って造営したとされる。 |
烏丸通の東、相国寺の北に上御霊神社の境内がある。明神鳥居には菊紋が入り、東面する。 | ||
八脚の楼門。 | ||
入母屋の立派な水盤舎。 | ||
社務所。 | ||
古の面影残る絵馬堂。 | ||
銅板葺の屋根が高めの舞台。 | ||
唐破風がいかめしい拝殿。後ろには本殿。 | ||
本殿北側の御所八幡宮。 | ||
本殿北側の白髭社・疫除社。 | ||
本殿北側の淡嶋社。 | ||
本殿北側の大舞宮。 | ||
本殿北側の御霊天満宮。 | ||
本殿北側の多度神社、貴舩社。 | ||
本殿北側の三十社。 左から春原社・荒神社・稲葉神社・今宮神社・熊野神社・愛宕神社・熱田神社・多度社・嚴島神社・猿田彦社・貴布禰社・丹生神社・梅宮神社・八坂神社・廣田神社・吉田神社・日吉神社・住吉神社・龍田神社・廣瀬神社・大和神社・石上神社・大神社・大原神社・平野神社・春日神社・松尾神社・八幡神社・賀茂神社・鴨神社 | ||
本殿北側の嚴島神社。 | ||
本殿東側の神明神社。 | ||
神明神社本殿。 | ||
境内南東の福壽稲荷神社。 創祀は不明。元禄15年奉納の石灯籠が現存し、享保20年の修復記録があり、江戸時代中期以前より祀られていたと思われる。 安永9年の『都名所図会』によれば、本殿南側に祀られており、『社記』によれば、「弘化2年、福壽稲荷大明神御祠、辰巳角築山へ奉遷」とある。 | ||
築山の上の福壽稲荷神社本殿。 |
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参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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