20131014 | |
新熊野神社 |
住所 | 京都市東山区今熊野椥ノ森町 | |
祭神 | 伊弉冊命 | |
摂社 ・ 末社 |
上之社 速玉之男大神 熊野家津御子大神 中之社 天忍穂尊・瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 鵜茅草葺不合尊 下之社 稚産霊神・軻遇突智命 埴山姫命・弥都波能売命 若宮社 天照大神 樟社 樟大権現 | |
神徳 | 不明 |
由緒 | 永暦元年、後白河上皇が紀州熊野権現本宮の祭神を勧請し、仙洞御所法住寺の鎮守として創建された。熊野新宮ともよばれ、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿が築かれ、『雍州府志』には、掘れば「那智の青白石」が出ると記されている。創建時の社域は明らかではないが、泉涌寺門前町内に鳥居崎という字があり、現状に数倍すると思われる。 『後白河院庁下文案』『梁塵秘抄』『愚管抄』などによれば、後白河上皇は神社への参籠相次ぎ、平康頼らの近臣を伴い今様の会を催している。また、寿永2年には10日あまりの参籠があり、平家没落必至と見た上皇の平家とのかかわりから逃れる行為であったとされるなど、参籠が政治的に最大限利用されている。 後鳥羽院、後光厳院、後円融院などの尊崇厚く、寺領寄進など保護が与えられている。 文明2年の兵火で焼失し、その後荒廃。寛文6年、東福門院和子が新たに工を起こし、寛文13年、聖護院道寛親王により本殿が再建された。 明治元年、神仏分離に際し社僧を廃止。明治39年、東山通りの開通に際して、境内の東側が道路になった。 『申楽談義』によれば、現地は足利義満が初めて猿楽を見た場とされる。応安7年、大和猿楽結城座の観世清次と藤若丸が、「今熊野勧進申楽」と称し勧進興行を行った。見物していた義満が芸に感激し、2人を同朋衆に加え、観阿弥・世阿弥と名乗らせた。 (参考:駒札/京都市・駒札/謡曲史跡保存会・京都山城寺院神社大事典)
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東大路通に面して、新熊野神社がある。 | ||
水盤舎。 | ||
拝殿とその奥に本殿。 | ||
上之社。 | ||
中之社。 | ||
下之社。 | ||
若宮社。 | ||
境内には、熊野古道がある。 | ||
能楽大成機縁の地。 | ||
樟社。 | ||
後白河上皇お手植えの樟。 |
リンク | 新熊野神社 | |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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