20090614 | |
羽束師坐高御産日神社 |
住所 | 京都市伏見区羽束師志水町 | |
祭神 | 高皇産霊神・神皇産霊神 | |
摂社 ・ 末社 |
摂社 北向見返天満宮・籠守勝手神社 末社 本社左手 貴布禰社・西宮社・愛宕社 厳島社・稲荷社・若王子社 本社右手 大神大明神・春日大明神 八幡大明神・天照豊大神 羽束師稲荷社 祭神不明の末社が一社 | |
神徳 | 五穀豊穣・風雨を祈願 |
由緒 | 雄略天皇21年の創祀。羽束師坐高御産日神社の最も古い記録は『続日本紀』にあり、大宝元年「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」と記されている。大同3年、斎部廣成が平城天皇の奉聞により、末社12社を造営勧請した。『三代実録』貞観元年には「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風雨を祈願する神さまとして崇敬されていたことが伺える。
創祀の時、この地には賀茂氏や秦氏の他に泊橿部が居住し、羽束師坐高御産日神社は泊橿部により祀られたとも伝えられている。『日本書紀』によれば、泊橿部とは、鍛冶の河上が太刀一千口の礼として五十瓊敷入彦命に賜った10の品部の一つで、『令集解』職員令によると、「泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とある。また、泊橿部は丈部とも書き、「はせつかべ」と読む。『姓氏録』によれば、丈部は鴨建津身命を祖に持ち、賀茂氏との繋がりは濃厚であったと考えられる。 羽束師坐高御産日神社は『延喜式神明帳』の山城國筆頭に挙げられ、式内大社に列せられている。 中世においては、『都鄙祭事記』「往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」と記されているように周辺地域の産土神として崇敬されていた。また、文政14年、『大乗院寺社雑事記』には、祭礼で宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職となって神事能を演じ、楽頭の得分は百貫と記されている。 久我から古川、桶爪、水垂、山崎を経て桂川に注ぐ人工水路を羽束師川と呼ぶ。羽束師川は、桂川右岸低湿地の水吐けのため、文化6年から17年の歳月をかけて、神官古川為猛が私財を投じて完成させた。また、文政10年、神主古川為猛により『羽束師社旧記』が著され、旧記からは、創祀と末社勧請の由来を読み取ることが出来る。 羽束師坐高御産日神社の社叢は、羽束師の森と称し、『和歌初学抄』には歌枕として「ハヅルコトニ」と注されている。謡曲の『蘆刈』には、「さればかほどに衰へて、身を羽束師の森なれども、言葉の花こそたよりなれ」とあり、『関寺小町』には、「羽束師の森の、木隠れもよもあらじ」とうたわれる。『和名抄』では「乙訓・羽束郷」と称され、低湿地では農耕が行われ、水上交通の要地として開けてきた。神社西方の長岡京四条四坊にあたる地から、祈願の際に献じる土馬が発掘されている。 |
羽束師川の東側、免許試験場の北方に羽束師坐高御産日神社がある。 鳥居は境内南方に続く参道に立つ。 | ||
水盤舎。 | ||
拝殿。割拝殿は京都南部地域に多く見られる。 | ||
社務所。 | ||
三間社の本殿。 | ||
本殿左手の末社群。 | ||
本社右手の末社群。 | ||
羽束師稲荷社。 | ||
境内西側にある祭神不明の末社。 | ||
羽束師川の道標。 |
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参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 |
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