20061022
改定 20070623
櫟谷七野神社
住所 京都市上京区社横町
祭神 春日明神・天児屋根命
武甕槌命・斎主命
摂社

末社
稲荷社・祭神不明の末社が一社
神徳 浮気封じ
由緒  『京内まいり』いわく、貞観元年、染殿皇后と云われた藤原明子の懐胎祈願を三笠山春日明神に祈り、その縁により産まれた清和天皇が春日明神を勧請したと記す。『山州名跡誌』には「古え、船丘の東北の地に山門の座主梶井門主の坊舎あり。仍って天台の守護ノ神、山王七社の神を、此の社地に勧請あり」と載せる。七野という社名は『雍州府誌』によると内野・北野・萩野・蓮台野・紫野・上野・平野の七野の惣社として祀られたとあり、『京内まいり』には安和年間、冷泉院の勅願により、伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神を勧請し、春日明神と合わせて七社を号したとある。
 永正8年の舟岡山合戦により荒廃し、織田信長が化野ヶ原に再建したが、豊臣秀吉が今の地に戻した。本殿周囲の石垣に残る家紋はその時に寄進した大名のものである。『名所都鳥』に「貞享2年、朝日の玉、白鹿の角などの珍物」を諸人に拝ませたとある。また『坊目誌』には、安永2年、所蔵の古い境内社図を天覧に供し、修装の下賜金を得たとある。天明8年正月の大火で焼け、寛政2年に再建された。
 『雍州府誌』に、宇多天皇の皇后が天皇の愛を取り戻そうと祈り、夢告により砂で奈良の三笠山を築いたら天皇の愛が戻ったと記す。この故事に倣い、社前に白砂を積むと「浮気封じ」の願いが届くという信仰が生まれ、白砂でつくる山を「高砂山」とよぶようになったと伝える。

賀茂齋院
 齋院は賀茂神社に奉仕する齋王の常の御所であった。大宮末路の西、安居院大路の北に位置し、150m四方の地を占めていた。齋院は内院と外院から構成され、内院には神殿・寝殿等があり、外院には齋院司・客殿・炊殿等があった。
弘仁元年、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王が卜定され初代齋王になった。その後、皇女・内親王・女王が歴々と補された。齋王は伊勢の齋宮と異なり、天皇の崩御・譲位があっても退下することはなかった。
 毎年4月、中の酉の日に催される葵祭には、齋王は齋院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行して両賀茂社に参拝した。齋王のみは上賀茂の神館に宿泊され、翌日はまた行列をなして齋院に遷御されたが、それは「祭の帰えさ」と呼ばれ、これまた見物の対象となっていた。建歴2年、第35代礼子内親王が病のため退下され、以後は財政上の理由により齋院は廃絶した。歴代の齋王に侍る女房には才媛が多く、齋院は歌壇としても知られていた。  
 大徳寺門前を南下する智恵光院通より路地を東へ入ったところに鎮座する。境内の大半が駐車場。
 本殿・拝殿・稲荷社は2mほどの石垣の上に建てられている。拝殿・幣殿・本殿と縦に続く。
 拝殿正面。
 白砂でつくる高砂山。執念が垣間見える。
 秀吉が再建した時の寄進印が石垣のそこかしこに残っている。
 松皮菱で小笠原家の紋。
 賀茂齋院跡の碑。
 覆屋の中にある小さい稲荷社。
 大きな木の根元にある末社。祭神は不明。
勝手にリンク 源氏の部屋
参考文献 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997
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