20061115 改定 20070505 改定 20071022 | |
賀茂御祖神社 |
住所 | 京都市左京区泉川町 | |
祭神 | 西本殿:賀茂建角身命 東本殿:玉依媛命 | |
摂社 ・ 末社 |
摂社 河合神社 ・ 出雲井於神社 ・ 三井神社 賀茂波爾神社 ・ 御蔭神社 末社 印璽社:霊璽 言社:大国主命他 井上社:瀬織津姫命 相生社:神皇産霊神 印納社:倉稲魂神・印璽大神 愛宕社・稲荷社:火産霊神・宇迦之御魂神 祓社:玉依媛命・賀茂建角身命・祓戸大神 |
神徳 | 賀茂建角身命:世界平和・五穀豊穣・殖産興業・病難方厄除け 玉依媛命:婦道の守護神・縁結び・安産・育児・水を司る神。 印璽社・印納社:印章守護の神。 言社:干支守護神 井上社:みたらし団子発祥 相生社:縁結び 愛宕社:賀茂斎院御所の守護神 稲荷社:忌子女庁屋の守護神 祓社:旅行・交通安全 |
由緒 | 創祀は不明。神武2年、「葛野主殿県主部」が賀茂建角身命を奉斎していたと『日本書紀』に記されており、これは天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族にあたる。また『賀茂神宮賀茂氏系図』によれば、賀茂建角身命の子孫である大二目命が「鴨建角身命社」を奉斎しており、賀茂御祖神社の始源の社とされている。崇神天皇7年、社の瑞垣が造営され、垂仁天皇27年、神宝が奉まつられている。また、緩靖天皇の御世より御生神事が行われ、欽明天皇5年から葵祭が行われている。糺の森周辺の発掘調査により弥生時代の住居跡や土器が発掘され、古代より続く祭祀の跡と証明された。 『姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神皇産霊尊の孫とされ、神武東征の先導役として天照大神の命を受け、八咫烏と化って天皇を導いたとされる。『山城国風土記』によれば、初め大和の葛木山に宿り、山城國岡田の賀茂から木津川を下り、桂川を遡行して久我の国に着いた。娘の賀茂玉依日売は石河の瀬見の小川において丹塗矢を拾い男子を出産したが、父神が誰か分からない。祖父の賀茂建角身命が宴を開き、男子に「盃を父と思う神に飲ませよ」と問うと、男子は屋根を突き破り天上へ昇ったとされる。『秦氏本系帳』によれば、松尾大社の祭神である大山咋命をその父神と見なしている。賀茂御祖神社では賀茂建角身命と賀茂玉依日売を祀り、賀茂別雷神社ではその男子である賀茂別雷神を祀っている。 『社記』によれば、社殿の造営は天武6年のこととされ、長元9年には21年ごとの式年遷宮が定められた。 葵祭 賀茂祭は、清浄のしるしとして、宮中の殿舎や神社の社殿・牛車・供奉者・祭具などに葵と桂を飾るところから葵祭と呼ばれるようになった。『日本書紀』によれば、欽明期を起源とする。『本朝月令』『年中行事秘抄』によれば、たび重なる風水害によって五穀や農作物が実らず疫病が全国的に蔓延したため、その原因を占えば賀茂神の祟りであり、天皇は賀茂神社へ使いを遣わし、馬を馳せたり神人が面をつけ葛をかけて走るなどの豊穣祈願の祭を行ったとある。馬を馳せるのは、騎射の祖とし、神人が葛をつけたとするのが葵桂をかざしとしたことであろうとされている。『続日本紀』によれば、文武2年、賀茂祭の日にあまりにもたくさんの人が集まるので騎射を禁止する令が発せられた。 騎射 『続日本紀』によれば、文武2年、「賀茂の祭りの日に、民衆を集めて騎射を禁ず」とあり、大宝元年、「賀茂神を祭る日にホコを執り、騎射することを禁ず。当国の人はその限りに非ず」。『類聚国史』には、神亀3年、「賀茂祭の日に人々が集まることを一切禁止」が布告され、葵祭やその騎射が盛儀を極めた。『社記』には、建保元年、後鳥羽上皇が当神社へ御幸し、糺の森の馬場で騎射を見たとある。『百錬抄』には「流鏑馬御覧」とあるところから、賀茂祭の日は勅使に陪従する朝廷の武官が騎射や走馬の儀を奉仕した。鎌倉初期より、賀茂祭以外の行幸・御幸の騎射奉納は武家が行い、「矢伏射馬」を「やぶさめ」と略して称するようになった。儀式も馬を駆せながら鏑矢を射ることが中心となって今日まで伝承されている。しかし、葵祭においては、今日なお平安時代の騎射の伝統を受け継いでいる。 齋院 弘仁元年、嵯峨天皇の皇女有智子内親王が賀茂の斎王と定められ、賀茂斎院御所を在所とした。『賀茂斎院記』に、後鳥羽天皇の皇女である礼子内親王が建暦2年に退位するまで、三十五代の斎王が選ばれたと記す。斎王の社参は、『源氏物語』や『枕草子』などに華やかで優雅な行粧が伝えられ、単に祭と言えば葵祭をさすほど朝廷の盛儀であった。 御生神事 『社記』によれば、緩靖期を起源とする。明治初年までは御生神事と称され、御蔭の地で行われるところから御蔭神事、あるいは御蔭祭と呼ばれるようになった。御生神事は鴨神社創祀の祭で、祭神の荒魂が御生され、馬で神霊を本宮へ奉迎し、本宮の和魂が新しい生命と合体されるという古代祭祀である。『源氏物語』では「みあれ詣で」と取り上げられ、新しい生命の息吹をうけて身も心もよみがえると言う御生の思想が信仰されていた。一方、神々しい神迎えの行粧が有名になり、『勘仲記』をはじめ数々の史書に登場する。御蔭の地で御生された神霊は、途次の鴨社総社で路次祭を行い、糺の森の神域に着御、馬に遷御し、切芝に入御する。入御した切芝では、神霊に鴨社の創祀と伝承を詠楽によって奏し、風俗舞に表わし物語ると言う古代祭祀である。 糺の森 糺の森は、高野川と鴨川が合流する三角州地帯の森林を呼ぶ。かつては150万坪の原生林であったが、中世の戦乱や明治の上知令によって現在の境内域になった。現在は全域を国の史跡として保存されている。糺の森は、旧山代原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年から600年の樹木約600本が生い茂っている。 樹林の間には奈良の小川、瀬見の小川、泉川、御手洗川の清流があって四季におりなす林泉の美と幽すいは、市民の憩いの場として古くから親しまれてきた。源氏物語、枕草子をはじめ数々の物語や詩歌管弦にうたわれている名所旧跡でもある。 |
賀茂川と高野川が合する点から北へと賀茂御祖神社の参道が伸びる。 | |
広い馬場と糺ノ森。本殿側より、南を向く。 | |
参道に沿って御手洗川がさやさやと流れる。 | |
神宮寺の池跡。『鳥邑縣纂書』によれば、神宮寺は嵯峨天皇の勅願寺として建立されたとある。神宮寺池跡は『鴨社古図』にも描かれ、みたらしの池に対して「新糺池」と称された。 | |
糺ノ森を抜けると賀茂御祖神社の境内に入る。朱塗りの第一鳥居。 |
楼門外の東側に広がる奈良殿神地。川の中の舩形の島を磐座とし、供物や器を司る奈良殿神を祀る。神殿を設けない無社殿神地として古代祭祀を伝える。 島の周辺に卯の花が群生しており、「卯の花に うちみえまよふ ゆふしてて けふこそ神を まつるへらなる」など、詩歌によく詠まれた。 『左経記』には、長元4年、賀茂斎王が大祭を前に難良刀自之神を祀ったとあり、祭りの庭でもある。また、舩島の周囲の川を「奈良の小川」と言い難良刀自之神を謂れとする。 |
第一鳥居南側の御手洗−直澄。古代から糺の森は清水の沸く所で、鴨川の水源として信仰されてきた。室町期の『諸社根元記』に「浮島の里、直澄」と記され、「糺」の語源とされている。 御手洗は祭神神話にちなみ、舟形の磐座石になっており、覆屋は崇神7年に瑞籬の造替を賜ったものを再現した透塀である。 | |
楼門西側の水盤舎。『治承遷宮記』に、應保元年の第六回遷宮の時、車止橋のたもとの御手洗の御井で、祈雨の儀式を行ったとある。 古来から、糺ノ森の三本杉から湧出する神水により、人々の生活や田畑を潤していたと伝承される。 |
境内入り口を占める楼門。高さ30m。寛永5年造替。 楼門に付属する西廻廊の床張りの一間は、葵祭の際に勅使が剱を解かれる間で、剣の間と云われる。 |
叉蔵の桔木の墨書。 |
境内東側にある細殿。寛永5年の遷宮による建築。二重合天井の向拝付流造となっている。 平安時代の『神殿記』に「細殿」とあり、天皇・上皇・法皇・院・関白等の賀茂詣には歌会などが行われた。天明の御所大火には内侍所の奉安所となり、文久には祐宮の安座所となっている。文久3年、孝明天皇行幸の際には、徳川家茂の侍所になった。 |
境内東側の御手洗川に掛かる橋殿。 寛永5年の遷宮による建築。入母屋造、檜皮葺、桁行4間、梁間3間。 御蔭祭りのときに神宝を奉安する社殿。古くは御戸代会神事、奏楽、里神楽、倭舞が行われ、現在は名月管弦祭、正月神事などで神事芸能が奉納されている。また、行幸のさい、公卿や殿上人の控所と定められていた。 |
境内西側にある供御所。寛永5年の遷宮による建築。入母屋造、檜皮葺、桁行9間、梁間3間。 社殿の中は東・中・西の三間に分かれている。東の間は供御所と言われ神饌を調理し、中の間は贄殿と言われ魚介鳥類を調理し、西の間は侍所と言われ神官が参集し、直会・勧盃の儀を行うところ。 |
境内西側の神服殿。寛永5年の遷宮による建築。入母屋造、檜皮葺、桁行5間、梁間4間。 夏冬の神服を縫製する御殿で、古代神殿様式を伝える。近世には、勅使殿・着到殿となり、殿内の一室が玉座となった。御所が災害にあったときは、臨時の御座所と定められている。 | 本殿西側にある大炊殿。神饌の御料を煮炊きし、調理をする社殿。入口の土間に竈があり、中の間は材料や用具を洗ったり調理する台所で、奥の間は盛付をし、神前へ供える順に並べる配膳棚が設けてある。古くは飯・餅・ぶと・まがりなど穀物類が調理されていた。 | 御井。神饌の御水や、若水神事などの祭事が行われる所。井筒を井戸屋形、上屋を井戸屋と呼び、全体を御井と称している。 | 御井の前にある水ごしらえ場。若水神事などの祭事が行われる所。式内末刀社の祭神が降臨される磐座であり、「橋」と呼ばれる。 |
本殿西側にある賀茂斎院御所旧跡にある葵の庭。 賀茂御祖神社には賀茂斎院の制が設けられ、弘仁元年、嵯峨天皇第八皇女有智子内親王が初代の斎王として卜定された。賀茂斉院御所は葵祭など年中祭事に滞在する御所で、平安時代には本殿西より賀茂川までが宮域であった。建暦2年、第三十五代礼子内親王が退位するまで御座所となったいたが、文明の乱の兵火により焼失した。その後、大炊殿と御井が再興され、双葉葵が自生する葵の庭も再現された。 | 大炊殿では薬酒が調製されていたことにちなみ、果林・梔子・錦木などの薬草が栽培され、果林の庭とも呼ばれている。 | 境内西側の解除所。行幸・御幸・官祭に際し、解除をするところ。常設の解除場が設けられたのは、他に類を見ない。 |
本殿西側にある媛小松。マツ科、ヒメコマツ。 「ちはやぶる 鴨の社の ひめこ松 よろずよふとも 色はかわらじ」 古今和歌集 藤原敏行。 と、うたわれる鴨の社の媛小松である。 「ひめこ松」のひめは、御祖神社祭神の玉依媛命の名にちなみ、「媛」と記されるようになった。 | 本殿・幣殿前の四脚門。 | 幣殿。 | 本殿垣内西側にある印璽社。印章守護の神として祀られる。 | 鴨の社の干支詣。言社。幣殿前に各十二支の守護神として7柱が祀られている。 | 鴨の社の干支詣。言社。子歳生まれは大国主命を守護神として、牛、亥歳生まれは大物主命を守護神として祀る。 | 鴨の社の干支詣。言社。卯、酉歳生まれは志固男命を守護神として、寅、戌歳生まれは大己貴命を守護神として、辰、申歳生まれは八千矛命を守護神として祀る。 | 鴨の社の干支詣。言社。巳、未歳生まれは大国魂命を守護神として祀る。 | 鴨の社の干支詣。言社。午歳生まれは顕国魂命を守護神として祀る。 | 言社権地。式内遷宮の際に社殿仮殿が建てられる権地。鴨社では、全ての本殿、摂社、末社に権地があり、禁足地になっている。 |
井上社。別名、御手洗社。前身を唐崎社とする。もともとは高野川と賀茂川の合流する東岸にあったが、文明2年、乱により焼亡したため文禄期に再建された。 葵祭に先立ち行われる斎王代の御禊の儀は社前の御手洗池で行われ、土用丑の足つけ神事、立秋前夜の矢取り神事なども行われる。土用になれば御手洗池から清水が湧き出し、その水泡を象ったものがみたらし団子の発祥と言われている。 | 楼門南側の相生社。祭神として神皇産霊神を祀る。古代から縁結びの神として知られ、目出度いことを「相生」というのはここから始まったとされる。相生社の南隣には、「連理の賢木」が生え、縁結びの神木として信仰されている。 | 境内西側の印納社。祭神として印璽大神、倉稲魂神を祀る。御垣内に古くから祀られている印璽社の祭神を祀り、ここに古印を納め守護を仰ぐ社。 |
境内西側に祀る二柱の末社。右に愛宕社、左に稲荷社を祀る。 愛宕社の祭神は火産霊神で、古くは贄殿神、酒殿神、奈良殿神と呼ばれ、賀茂斎院御所の守護神として御所内に祀られていた。 稲荷社の祭神は宇迦之御魂神で、賀茂斎院御所内の忌子女庁屋の守護神として庁屋の池庭の中島に祀られていた。 文明の乱以降、両社相殿として祀る。 | 境内西側の祓社。祭神として玉依媛命、賀茂建角身命、祓戸大神を祀る。御祖神社は古代から鴨神道と称する思想信仰を伝え、旅行、交通安全の守護神であり、災難除け、病難除けの神である。 |
出雲井於神社 |
祭神 | 建速須佐乃男命 | 摂社 ・ 末社 |
橋本社:住吉神 岩本社:玉津島神 |
由緒 | 創祀は不明。式内社。葛野主殿県主部という氏族が、祖神として祀った社。葛野主殿県主部は、古代山城北部に勢力を持ち、鴨氏と同じ祖系で、『神亀3年、山背国愛宕郡出雲郷雲上雲下里計帳』で知られる氏族である。大宝律令以降、山代国葛野郡は、4方に分割され、鴨川の西方より東山までを愛宕郡とした。その内、鴨川の東岸を蓼倉郷、西岸を出雲郷とした。承和11年、太政官符により、鴨社領出雲郷の総社に制定され、元永2年には神社大火の記録が残る。 通称を比良木社と称し、御生神事が行われていた大柴社と薮里総社柊社が同神であったことから、合祀されたので、名付けられた。また、社の周辺の木々のことごとくが、柊のごとくに葉を尖らせることから、「何でも柊」と呼ばれている。 末社の橋本社はもともと鴨社領栗栖野郷松ヶ崎里総社であった椙尾社として祀られていた。また、岩本社は鴨社鎮祭場とされていた一条戻橋に住吉社として祀られていたとされる。 |
賀茂御祖神社楼門のすぐ西側に東面して建つ。幣殿すぐ前に舞台。 | |
船型の水盤と井形。 | |
出雲井於神社全景。本殿は一間社流造。礎石に井桁を組み、その上に社殿を構築している。寛永6年の式内遷宮で移築された旧本殿と伝えられている。 |
三井神社 |
祭神 | 東社:伊賀古夜日賣命 中社:賀茂建角身命 日吉神社:大山咋命 西社:玉依媛命 |
摂社 ・ 末社 |
諏訪社:建御方神 小杜社:水分神 沢田社:御年神 白鬚社:猿田彦神 河崎社:猿田彦神 賀茂斎院神霊社:歴代斎王神霊 |
由緒 | 『風土記』山城国逸文では蓼倉里三身社、『延喜式』では三井ノ神社、と記される社である。本宮の若宮としての信仰があり、三身とは、賀茂建角身命・玉依媛命・伊賀古夜比賣命であり、それぞれ中・西・東の三社に祀られている。 末社の賀茂斎院神霊社は、初代有智子内親王から第三十五代礼子内親王までの歴代斎王のご神霊をまつるお社。文明の乱により焼失したため、糺ノ森にあった神宮寺内に動座し、大正10年に三井神社末社白鬚社に合祀された。 |
賀茂御祖神社本殿のすぐ西側に三井神社の垣内がある。本殿は一間社流造で南面し、左から西社、中社、東社。 | ||
本殿西側にある末社三社。左から白鬚社、小杜社、諏訪社。 | ||
三井神社棟門付き井戸屋形。玉依媛命の神水として信仰され、「御井」と呼ばれる。 |
勝手にリンク | 下鴨神社 | |
参考文献 | 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997 神社辞典 東京堂出版 1997 日本の神様読み解き事典 柏書房 1999 |
Home |