20070603
繁昌神社
住所 京都市下京区繁昌町
祭神 市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命
摂社

末社
班女塚
神徳 悪縁消滅・商売繁盛・良縁成就
由緒  創祀は貞観年間。境内は藤原繁成の館があったところで、館には功徳池という池があり、その中央の小島に安芸の宮島の弁財天を勧請したとされる。
 別名に班女ノ社・半女の社ともあり、『宇治拾遺物語』に「長門前司女、葬送の時、本所にかえる事」と云う説話がある。

 「前長門国守だったある人に娘があった。はじめは宮仕えをしていたが、辞めてからは家におり、定まった夫もなく、ただときどき通うてくる男などがいた。高辻室町のあたりに家があって、寝殿の南面の西にあたる妻戸の口の処を男と語らいをする場所にしていた。
 ところが、27、8歳程になった頃、ひどく患った末にとうとう亡くなってしまった。遺体は妻戸口にそのまま寝かせ、車に積んで鳥辺野の墓地へ運んだ。さて車から取り降ろしたところ、棺が軽く、蓋が少し開いている。不審に思ってあけてみると、棺の中には何も入っていない。帰ってみると、遺体は妻戸口に、もとのような格好でうち臥している。翌日、もう一度棺の中へ入れようとすると、今度は土から生えた大木のようにまるっきり動かない。これは死んでもここに居たいからであろうと思い、そこに遺体を埋めて高々と塚を築いた。気味の悪いことがあるという言伝えのために、人々は塚のそばには寄り付かなくなった。そして、この塚の上には、どうしたわけか、神の社一座が祀られるようになった。」

 この娘を葬ったところが班女塚で、『宇治拾遺物語』の場所と一致し、現在でも繁昌神社の西北の路地に、二間四方ぐらいの空地の中央に大きな赤味をおびた石が安置されている。この塚を神格化し、弁財天を祭神としたのが繁昌神社のもう一つの謂れで、旧鎮座地にあたる。弁財天は針才女ともいい、『雍州府志』には、針才女の音が訛って繁昌神社と称したとされ、針才女と祭神を謳っていた時よりも米銭の入りが倍になったという。
 中世には真言宗功徳院が神宮寺となり、本尊に毘沙門天を安置していたが、明治の神仏分離令によって神社だけが残った。豊臣秀吉が東山五条の佐女牛八幡宮社の近くに移したこともあったが、祟りがあるのでまたもとの場所へ戻されたとされる。
 高倉室町の西に繁昌神社の小さな境内がある。
 南側から北を向く。後ろには学校。
 本殿。
 繁昌神社西北にある班女塚。住宅の密集する中にありながら、そこだけぽっかりと空を仰ぐ。
 班女塚近景。
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京洛そぞろ歩き
参考文献 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997
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