20090714
御香宮神社
住所 京都市伏見区御香宮門前町
祭神 神功皇后
 配祀
  仲哀天皇・応神天皇・宇倍大明神
  河上大明神・高良大明神・仁徳天皇
  菟道稚郎子尊・白菊大明神・瀧祭神
摂社

末社
末社
 菊姫社・弁財天社・松尾社・東照宮
 太神宮・豊国社
四社
 住吉社・八阪社・恵比須社・八幡宮
六社
 金札宮・那智社・熊野社
 新宮社・天満社・春日社
境外社・境内社
 深草御香宮・桃山天満宮
神徳 御香宮:安産祈願
御香水:病気平癒
由緒  創祀は不明。貞観4年、境内から清泉が湧き出でて香気が漂い、病者が飲めば忽ち癒えたことから、「御香宮」の社名を賜った。また、『菟芸泥赴』によれば、「筑前国糟谷郡の香椎宮から神功皇后を勧請し、神功皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」と異説を述べる。『山城名跡志』によれば、延喜式式内社である「御諸神社」に比定している。
 円融天皇以後には、度々社殿の造営が行われ、弘安3年、後宇多天皇により元軍討伐祈願の幣物を奉られた。室町時代には伏見荘の鎮守として荘民に崇敬され、盗人などの糾明の際に、神前において身の潔白を証明する神聖な場所であった。また、叡山の神輿入洛の風聞で幕府が出動命令を出した際に、住人が武装して御香宮に参集するなど、一旦事があれば伏見住人が集結する場所でもあった。
 伏見荘は伏見宮家によって伝領され、特に後崇光院貞成親王は、御香宮を産土神として崇敬していた。祭礼には猿楽や相撲を覧じ、御百度や御千度を行ったことが、日記「看聞御記」に詳しく記されている。応仁の乱では兵火に罹り、小祠を祀るだけとなる。

 天正18年、豊臣秀吉は文禄の役のため、願文と備前長光作の太刀を奉納した。古来より御香宮は伏見九郷の中心である石井村に鎮座していたが、文禄3年、豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたり、城郭鬼門の守護神として、大亀谷に移転させられた。慶長10年、徳川家康により旧地に戻され、現在の本殿が造営された。また、徳川紀伊頼宣、水戸頼房、尾張義直や千姫は伏見で誕生しており、伏見城下の鎮守であるとともに、徳川家の産土神として崇敬された。元和8年、頼房により旧伏見城の大手門が表門として移築寄進され、寛永2年には頼宣により拝殿が寄進されている。大亀谷の古地は「古御香」と呼ばれ、以後は御旅所となった
 安永6年、小堀和泉守政方が伏見奉行に任じられ、はじめ善政を施して町民から悦ばれていたが、側近の奸臣に身を誤られ、重税・重罪を課しての苛斂誅求はその極みに達した。町年寄文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛・伏見屋清左衛門・柴屋伊兵衛・板屋市右衛門・焼塩屋権兵衛の7名は幕府に直訴せんと画策した。天明5年、政方は罷免され、町民は塗炭の苦しみから救われたが、7名は獄中で病死した。明治20年には勝海舟の撰文、三条実美の書により「伏見義民碑」が建立された。
 慶応4年、鳥羽伏見の戦いでは、伏見奉行所に幕軍が拠り、御香宮は薩摩藩の屯所となって大手筋を挟んで激戦が繰り広げられたが、幸いにも兵火を免れている。

 神主職は、室町期以降、伏見荘内三木村の地侍で、伏見家に下司として仕えていた三木氏が兼務していた。江戸期には神主職として存続し、現在に至っている。
 重用の節句には神幸祭が行われ、伏見九郷総鎮守の祭礼になっており、古来より伏見祭と称せられている。徳川秀忠の息女千姫が奉納した神輿は日本一重い神輿と称せられ、渡御の先駆をなす雌雄の獅子は、文政4年伏見奉行仙石大和守久功の寄進による。
 御香水は名水百選に選ばれており、御香宮の名の起源となった井戸で「石井の御香水」として伏見七名水の一つとして有名であった。明治以降涸れていたが、昭和57年、本殿東側に地下150mから汲み上げて復元した。
 伏見の街の真ん中、大手筋に向かい伏見城の大手門を移築したとされる表門が構えられている。
 表門からは参道が続く。
 能舞台。
 水盤舎。
 絵馬堂。
 頼宣寄進の割拝殿。
 虹梁、蟇股、間斗束と、極彩色の図柄が所狭しと並べられている。
 本殿南東より。
 本殿裏側。本殿も極彩色の絵の具で飾られている。
 幣殿から本殿を見る。
 幣殿西側の御香水。
 滾々と湧き出る清水を汲みに来る人が並ぶ。
 本殿西側の菊姫社。
 菊姫社。
 本殿西側、菊姫社北側の弁財天社。
 弁財天社は池の中に浮かぶ。
 弁財天社北側の松尾社。
 松尾社。
 松尾社北側の東照宮。
 東照宮。
 本殿北東の太神宮。
 太神宮。
 本殿北東の豊国社。
 本殿東側の四社。
 左から住吉社・八阪社・恵比須社・八幡宮。
 本殿北側の六社。
 左から金札宮・那智社・熊野社・新宮社・天満社・春日社。
 祓所。
 境内南端、表門の脇にある伏見義民碑。
勝手にリンク 御香宮神社
神詣
参考文献 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997
Home