20080608
粟田神社
住所 京都市東山区粟田口鍛治町
祭神 主祭神
 建速素盞嗚尊・大己貴尊
左殿
 八嶋小奴美神・ 五十猛神・大屋彦神
 大屋津媛神・抓津媛神・須勢理媛神
 大歳神・宇迦之御魂神
右殿
 奇稻田媛命・神大市比賣命
 佐須良比賣命
右殿外殿合祀
 竹生嶋社・猿田彦社・度會神
 天御中主神・加茂神・日吉神
 和歌三神・手力雄神・崇徳天皇
 聖天尊
神徳 厄除・病気平癒・商工経営
縁結び・安産・旅行安全
摂社

末社
摂社
 北向稲荷神社倉稻魂神
 出世恵美須神社事代主神・少名彦神
 大神宮社天照大神・豊受媛命・八幡社・春日社
末社
 多賀社伊弉諾尊・伊弉冉尊
 朝日天満宮菅原道真公
 鍛冶神社天一目神・三條小段冶宗近・粟田口藤四郎吉光
 太郎兵衛神社・吉兵衛神社粟田の地主神
由緒  創祀は不明。一説には、孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命を祖とする粟田氏が氏神として祀っていたとされる。その後、粟田氏は熱田神宮の社人として一族全員で移り住み、土地に名を残すのみとなった。
 粟田口村の産土神。神仏分離以前は祭神を牛頭天王とし、別当を歓喜院とよんで本地仏薬師如来を安置、感神院新宮または粟田天王社と称していた。『京都御役所向大概覚書』によれば、氏子圏は「南西粟田口弐拾五町境内限、東山科領九躰町迄、北南禅寺内門前南側限、南知恩院古門前石橋町北側限」とし、現在も変更がない。
 貞観18年、神祇官並びに陰陽寮より「この年隣京に兵災ありて、秋には疫病大いに民を悩ます」と奏上があり、清和天皇は直ちに勅を発して五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願した。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感進院祇園社に七日七晩にわたり参篭した。その満願の夜、老翁が夢枕に立ち、「今既に、国家に災変あらんことを聴いた。叡慮を痛められる事のないように、汝すぐ天皇に伝えよ。天皇の心は天に通じ、吾を祀れば必ず国家と民は安全なり」と告げた。興世が「如何なる神か」と尋ねると「吾は大己貴神也。祇園の東北に清き処あり。牛頭天皇に縁ある処である。さすれば其処に吾を祀れ」と老翁は答えて消えた。興世は神意なりと朝廷に奏上し、勅命により粟田の地に社を建てて大己貴神を祀った。
 永久年中、天台座主東陽坊忠尋が再興するが、応仁の乱により焼亡、足利義尹の産土との理由から吉田兼倶により明応9年に再建された。その後、天正7年、文化13年、文政6年、弘化2年とたびたび再建・修復がされている。
 別当の歓喜院はもと境内にあり、真言宗高野山金剛峰寺に属した。大和生駒宝山寺の湛海を中興とし、不動堂・観音堂・歓喜天堂など諸堂を擁したが、神仏分離により廃された。
 祭礼は粟田口祭の名で知られ、神輿の他に18本の鉾を出している。東分木町の阿古鉈鉾は神宝として重んじられ旗に「感神院新宮」の五字を記す。『粟田地誌漫録』によると、尊朝親王の時、常在光院東方の瓜田より光がさして天王社を照らす希瑞があり、門主が光の元をたずねると瓜の上に「感神院新宮」の五字が刻まれた牌扁があったので瓜鉾を作らせて、その扁額を掲げさせたと伝えられている。
 蹴上から西へ三条通を行ったところに粟田神社の参道が伸びる。
 二の鳥居。参道は天王の辻子と呼ばれる。
 三の鳥居。境内は坂を上った先にある。
 社務所。
 能舞台。
 水盤。
 拝殿。
 拝所と幣殿、奥に本殿。
 三間社流造の本殿に桁行二間、梁間三間で正面に方一間の拝所を併設した幣殿が接続する複合社殿になっている。
 三の鳥居脇にある鍛治神社。
 本殿北側、朝日天満宮と多賀社。
 本殿北側、大神宮。
 本殿北側、出世恵美須神社。
 もともとは三条蹴上の夷谷に祀られていたが、蹴上の山崩れにより、土砂と共に流失した。三条神宮道の辺りまで流され遷座し、現在でも夷町という町名が残る。その後、青蓮院内金蔵寺に遷され、廃仏毀釈により粟田神社の摂社として遷座した。
 源義経が奥州へ下向する際に源家再興の祈願をした神として名高い。また、その神像は日本最古の寄木造恵美寿神像と言われている。
 吉兵衛神社。
 拝殿南側、太郎兵衛神社入口。
 太郎兵衛神社。
 拝殿南側、北向稲荷神社。
 北向稲荷神社。
勝手にリンク 神奈備へようこそ
粟田神社
参考文献 京都・山城寺院神社大事典 平凡社 1997
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